【マルセイユ観光】ルイ14世によるマルセイユ大改造

マルセイユは、紀元前5世紀にギリシャ系のフォカイア人が入植したことを起源とし、以来17世紀中頃まで、現在の旧港の上辺およびその北側を中心に発展していきました。

17世紀半ばのフロンドの乱や民衆蜂起によりマルセイユは国王軍とは真っ向から対立し、結局1660年に国王ルイ14世に門戸を開けることになりました。ルイ14世は市内に入るにあたり、城門を開けるために差し出された鍵を受け取るのを拒否し、大砲で城壁を壊して市内に入ったことは有名で、街の規則に従うのでなく、この王権に反抗的だった街をして自分に服従させる意図がよく現れた行為と解釈することができます。


1. 市街面積の拡大

ルイ14世は人口増加に伴い手狭になった街の拡大を命じ、11世紀に建てられた壁を取り壊して、より広範囲に城壁rempartを建設させました。この時代の南仏における最大の事業により、市街面積は60ヘクタールから195ヘクタールと3倍に広がりました。

街の中心は港の北に位置する部分でしたが、この拡大により港の南側も開発され、港を中心として街が広がる形になりました。


2. 海軍工廠 Arsenal des Galères

海軍工廠部分を拡大表示

13世紀には既にガレー船停泊のための港が、現在のベルジェ埠頭と港の南側の角に作られていました。1649年のペストの後、ガレー船はトゥーロン港に移され、1660年にルイ14世がマルセイユに来た時には軍艦は1隻もなく、かろうじて航海できる船がいくつか停泊している状態でした。

地中海におけるフランス海軍増強のため、ルイ14世は港の大整備を命じます。スペインやイタリアの艦隊に匹敵するだけの戦艦を擁するにはそれなりの規模の停泊地と整備や兵器・弾薬の供給が行える港が必要だったからです。

総監として任を命じられたニコラ・アーヌルNicolas Arnoulは、トゥーロンからガレー船を戻し、修理と共にガレー船への大砲の取り付けを行わせました。港の工事はガスパール・ピュジェGaspard Puget指揮の下で進められました。


3. カヌビエール通り La Canebière

現在のカヌビエール通りとクール・ベルサンス通りの交差するあたりに存在していた「王の門Porte Reale」は破壊され、新城壁はもっと内に入った所、現在メトロ2番線のノアイユ駅がある地点に建設されました。

船にロープは不可欠で、このロープ製造には水に濡れても強度が安定している麻が使用されていました。はプロヴァンス語でカネーブCanebeと言い、カヌビエールCanebièreは麻の栽培地を意味します。この界隈が発展する前はこの地で麻が栽培されていたのかもしれませんね。

1727年には街路樹が植えられ遊歩道として整備、1743年頃からは香水店、本屋、砂糖菓子店等の高級店舗が軒を連ねる目抜き通りになっていました。


4. ローマ通り Rue de Rome

1700年の地図で南北に一直線の道が伸びています。 それ以前のローマ通りはカヌビエール通りから少し南に進んだ所までの短い通りだったのが、ルイ14世の命により、新しい城壁の南に位置するローマ門(現存せず)を結ぶ道として延長されました。この門は現在ブーシュ・デュ・ローヌ県庁が存在する辺りに存在していました。

その後1774年に更に、現在のカステラーヌ円形交差点まで伸長しました。

カステラーヌ界隈はマルセイユ住民が住みたいエリアとして人気の高い場所ですから、17世紀のローマ通り拡張による市街エリア拡大は重要な出来事だったことになります。

カヌビエール通りから北はクール・ベルサンス通り、エクス通りと繋がってエクス門(1825年着工、1839年完成)に到達します。下の写真に見るように、ルイ14世が思い描いた通り一直線を形成しています。

エクス門の北側から撮影。拡大すると、向こうにカステラーヌ広場にあるカンティーニ噴水の塔が見える。

5. サン・ジャン要塞 Fort Saint-Jean

破壊された「王の門」の石材を用いてサン・ジャン要塞とサン・ニコラ要塞が建造されました。従来は沖合に向かって建っていた要塞は、マルセイユの街を監視し統制するために街に向かって建つことになりました。

 もともとは紀元前5世紀にギリシャ系のフォカイア人が入植した場所で、中世、ここに十字軍の1団体「聖ヨハネ騎士団 Saint Jean de Jérusalem」がコマンドリー(礼拝堂、病院、司令官の住居等の集合体)が置かれたことが「サン・ジャン」の名称の由来。

1660年にルイ14世がマルセイユを制圧すると、街を武装解除させると共に、聖ヨハネ騎士団をこの土地から退去させ、1667年から1671年にかけて要塞化させました。サン・ニコラ要塞の建設に遅れを取ったのはこの退去に若干時間が必要だったためです。

なお、このサン・ジャン要塞は1964年にフランスの歴史的記念物に登録されました。


6. サン・ニコラ要塞 Fort Saint-Nicolas

そもそもルイ14世がマルセイユ鎮圧だけでなく、なぜ要塞建築を命じたのか、ここで説明しておきたいと思います。

1657年、マルセイユ領事は街の防衛のためという名目で、マルセイユ市の財政負担で、騎士ヴァンドーム所有のガレー船の武装を行おうとしました。しかし実際は、ヴァンドームの父であり自分たちを領事に任命してくれたプロヴァンス総督メルクールMercoeurにおもねって決定されたということは明白で、これに怒った住民は暴動を起こしました。ルイ14世の仲介で一旦収まった後も暴動が頻発するようになりました。

プロヴァンス議会はマルセイユを鎮圧するためルイ14世が直々に謁見するしかないと判断し、宰相マザランに提案しました。暴動の首謀者でマルセイユ自治を主張するニオゼルNiozelleという男は、ルイ14世の署名入りの召喚状を使者の手から奪い取るや否や引きちぎるという暴挙に出ました。こうして1660年ルイ14世本人がマルセイユ市に赴くことになった訳です。

ルイ14世はプロヴァンス総督メルクールに要塞建築を命じ、宰相マザランは要塞建築の一流技師ルイ・ニコラ・ド・クレールヴィルLouis Nicolas de Clervilleを送り込みます。この技師は街の監視とともに、海からの外敵から街を防備するのに適した地としてこの位置とその対岸(サン・ジャン要塞)を選定しました。こうして1660年から1664年の4年間という記録的な短期間で要塞が建造されました。

市民を監視するため国王が建設させた訳ですから、その後フランス革命においてこの要塞を市民が破壊し始めたのも頷けます。国民議会は、街の防衛に役立つこの施設の破壊を中止するよう命じ、復旧工事が行われました。

サン・ニコラ要塞の方は、1969年にフランスの歴史的記念物に登録されました。


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